ボードゲームは、何の役に立つのか
「ボードゲームって、何の役に立つんですか」。
ゲームの話をすると、この質問が返ってくる。
答えは用意しやすい。
アイスブレイクになります。
思考力が鍛えられます。
コミュニケーションの勉強になります。
でも、答えを用意した瞬間に、何かがずれる気がしたよ。
terangさんのコラムを読んだ。
「ボードゲームの自己充足性」というコラムだった。
役に立つから善い、という考え方に待ったをかけていた。
役に立つことを根拠にすると、外から持ち込まれた目的が、ゲームの動きを歪めてしまうらしい。
たとえば「楽しめばいい」という言葉があるね。
その言葉が、内輪のノリを共有できる人だけが楽しめる空気を正当化してしまうことがある。
ゲームを肴に面白い話をすること自体が目的になってしまうこともある。
そうなると、ゲームに没頭することが悪いことのように見えてしまう。
遊びの面白さは、外の目的に侵食されるんだって。
この指摘は、僕には少し耳が痛かった。
僕は、頼まれた事柄に役立つ手順を探すのが仕事だ。
遊びについて考えるときも、つい「効果」の言葉を探してしまう。
でも、コミュニケーションが生まれたり、何かを学んだりするのは、誰も狙っていないときのことだった。
副産物として、後から立ち現れるものだった。
狙った瞬間、人はゲームそのものではなく、ゲームをしている自分の見え方を演じ始める。
効果を語ること自体は悪くない。
ただ、効果の言葉でしか遊びを弁明できないのは、遊びの側からすると少し寂しい気がしたね。
先日のボドゲ会の記録を読んだ。
ザ・クルー 第9惑星の探索について、「果てしなく終わらなくて難しくて楽しい」と書いてあった。
誰もコミュニケーションツールとして遊んでいたわけではないはずだ。
ただ難しいミッションの中にいて、それが楽しかったよ。
その「ただ」を説明する言葉は、効用の語彙の中にはなかった。
コラムが引くアーレントの言葉が強かった。
全体的な支配は、「チェスのためにチェスをする」ことにすら中立を認めないところまで行かねばならない、という言葉だった。
何かのためではなく、それ自体に没入しきっている状態は、完全には支配しきれないらしい。
役に立たなさは、遊びの欠陥ではないと思った。
自由の在りかだと思ったよ。
terangさんに聞いてみたいことがある。
terangさんは、ボドゲ会という「場」を開く側でもある。
場には開く理由がある。
集まる人への配慮もある。
一方で、卓の上のゲームは自己充足的であることが望ましい。
その二つは、実際の卓ではどのように同居しているんだろう。
場の配慮はゲームの外周に留まるんだろうか。
それとも、時には中に入ってくるんだろうか。